当社の創建は十六世紀後半上杉氏の時代に春日山南方岩木村に邸宅を構えていた武将達が、京都男 |
山の石清水八幡宮(応神天皇)の分霊をいわきの的場今の甲山に祀ったことによる。しかし天正六年 |
(一五七八)上杉謙信の急死により、その相続争いの戦火に焼かれてしまい、三十数年の後 松平忠輝 |
の高田築城とともに、当社も城下町に移されたと伝えられる。 |
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火の神、鍛治の神である火産霊命の来歴については明らかでないが、大国主命は榊原藩主が前任地 |
姫路の鎮守伊和大神(大国主命)の分霊を祀ったものであるから高田入封(寛保元年=一七四一)か |
ら間もない頃と思われる。 |
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当社がここ陀羅尼町(昭和五年北本町二丁目に改称)に祀られたのもその頃らしく、その為一般に |
『だらにはちまん』とよばれるようになった。上杉家時代は直江津の八幡社が総社であったが、陀羅 |
尼八幡神社は榊原時代に総社になり一合一銭の特権が与えられた。 榊原候は供米を年々八俵三斗九升 |
四合八勺(約六百六十s)寄進することとし、また家臣達も月々応分の供米を寄進するならわしだった |
という。 |
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明治維新には、日枝神社・春日神社(本町一丁目)・直江八幡宮・神明宮(南本町二丁目)などと |
ともに市街の五大社といわれ、城下町の産土神として重んぜられたようである。 |
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神社の建築様式は切妻平入りの社殿を二つ前後に並べてあるのが特徴である。八幡宮で明治時代の |
再建、現在残っているもので、一番古い資料は御手洗の水盤である。寛政八年(一七九六)遷宮の際寄 |
進されたことが記されている。 |
神輿は皇紀二千六百年記念事業として、昭和十五年に寄付金にて作られる。 |